FEELING ARCHIVE / ときめく
18:22 / 駅前のベンチ · 春初めて下の名前で呼ばれた日、返事が遅れた。
ちゃんと聞こえていた。聞こえなかったふりをした。
紙コップのふたを爪で押していたら、急に自分の名前が聞こえた。いつもは名字なのに。呼び間違いかと思って顔を上げると、相手は普通に次の話をしていた。
紙コップのふたには、ストローの穴とは別に小さな飲み口があった。座ったベンチには日が当たっていて、さっきまでのカフェより眩しい。相手は新しく買った飲み物をこちらに向けた。何も変わらない午後のはずだったのに、最初の『ねえ』の後ろに下の名前が付いたことで、急に一秒だけ違う日になった。
A SMALL SCENE / 創作会話
あなたねえ、これ飲んでみる?
相手え、あ、うん。
あなたどうしたの?
相手いや、なんでもない。
創作した会話です。実際の誰かの発言や作品の引用ではありません。相手には何でもない一秒が、こちらにはやけに長かった。
WHAT WAS DIFFERENT
あのとき、何が残ったんだろう。
人は毎日のように自分の名前を聞いている。呼ばれることなんて珍しくない。でも声の高さも、話す速さも変わらないまま、呼び方だけが変わると、返事の準備が間に合わないことがある。聞こえなかったわけではなかった。むしろ、はっきり聞こえすぎた。ひとつ違う呼び方に気づいた自分を、相手には見せたくなかった。
下の名前で呼ぶようになったのは、単に言いやすくなっただけかもしれない。自分から頼んだ覚えもないし、相手が特別な意図を持っていたのかはわからない。それでも、ちゃんと嬉しかった。嬉しい気持ちを認めることと、相手にも同じ気持ちを求めることは違う。だから、その場では飲み物を受け取って話を続けた。
WHY THIS STAYS
忘れられないのは、
こういうところ。
呼び方が変わったから好意が確定するわけではない。ただ、二人の普段の言葉が一文字だけ変わった。そんな小さな差をうれしく思う日もある。
帰りの電車で、スマホの連絡先を一度開いて、何も変えずに閉じた。
帰りの電車で、同じ名前を連絡先の画面に見つけた。表示はずっと前から変わっていない。今日はそこだけが少し新鮮に見える。名前を変える操作を始めて、やっぱり戻した。次に呼ばれるかどうか、また名字に戻るかどうかはわからない。わからないまま、紙コップの飲み口の小さなへこみだけを思い出した。
IN YOUR OWN STORY
もし、似た日が来たら。
呼び方は相手の希望を聞く。自分もそう呼びたいなら『下の名前で呼んでもいい?』と素直に聞けばいい。
嫌がる相手には元の呼び方に戻す。照れを同意だと決めつけない。
名前なんて、毎日呼ばれているのに。
架空の場面。特定の実話・SNS投稿・映像作品を基にしていない。
イメージ写真: Fumiaki Hayashi / Unsplash。写真は創作された出来事そのものを撮影したものではありません。
気持ちから探し直す